เข้าสู่ระบบもう聞いた。港町へ行く前から知っていた。指輪も外した。それでも、公の場で言葉になると、痛みの形が変わる。
征臣は、まだ私を見ない。「婚約関係は、本日以前に白紙へ戻しています」 征臣は一度だけ息を置いた。「申立書を止めたのは私です。本人へ確認しないまま保留にしました。彼女はそれを知って契約を白紙にし、自分で再提出しています」 最後まで、声の調子は変わらなかった。 清隆の顔が険しくなり、何か言いかけた口を閉じた。 征臣は視線を動かさなかった。 久我山がペンを置いた。「記録します」 征臣がようやくこちらを見た。目が合ったのはほんの短い間で、私は先に伏せた。 扉の近くで、真理がハンカチを握り直した。 刺繍の銀鈴が一度だけ表へ出て、また指の下へ隠れた。証言席へ向かうまで、彼女はその布を何度も折り直していた。 折り目だけが、少しずつ増えていった。 宮野真理は、証人席まで歩くのに時間がかかった。靴音は揃っていたが、ハンカチを握瀬里奈はまだ笑っていた。 笑っている形を、顔に残しているだけだった。口角は上がっているのに、目元が追いついていない。涙を使う前の莉々花とよく似ている。「宮野さん、あなたもお疲れだったのでしょう。療養施設に長くいらした方の記憶は、どうしても曖昧になりますもの」 真理の手がハンカチに沈む。 その瞬間、私は開いていたファイルを一度閉じた。 小さな音に、瀬里奈の視線がこちらへ向く。「宮野さんの記憶だけではありません」 瀬里奈が私を見る。 あの家で何度も見た目だった。大人になりなさい、と言う前の目。あなたのためよ、と言う前の目。 でも、ここには白鳥邸の廊下はない。 私の背中を壁に追いやる家具もない。「母の服薬メモがあります。色や匂い、配送日まで書いてある。……たぶん母は、何か違うものが混じった時に分かるようにしていたんだと思います」「澪さん」 瀬里奈の声から、砂糖をまぶしたような甘さが一枚剥がれた。「あなた、こんな場所で亡くなった方の不安を利用して、恥ずかしくないの」 胸の内側が、一度だけ熱くなった。 怒鳴り返したら楽だったと思う。 でも、母の帳簿は怒鳴らない。母の数字は叫ばない。だから私も、ページを開く。「恥ずかしいのは、母の不安を知っていて薬箱を触った人です」 部屋の端で、誰かが息を止めた。 久我山が資料に目を落とす。「白鳥瀬里奈氏。薬箱に触れた履歴について、回答できますか」「家の中のことを、いちいち控えているはずがありません」 瀬里奈さんは紙を見る前に答えていた。 真理が顔を上げる。「控えは、ございます」 瀬里奈の目が動いた。 笑顔が消えた。 真理はハンカチの端を整えてから、相沢の方へ視線を送った。相沢がもう一つの封筒を出す。 古い茶封筒だった。 角が潰れて、裏面に小さく菜月の字がある。 薬箱確認表。 母らしい、少し硬い字。 相沢が中身を取り出す
瀬里奈の微笑みが、初めて目元から剥がれた。 ファイルの中で、配送控えの端が照明を返す。 差出人欄には、白鳥家ではない会社名が印字されていた。 私は会社名を一字ずつ追った。母の指輪へ伸びかけた指は、ファイルの端で止めた。 差出人欄の会社名は、小さかった。 フォントも薄い。見落とされることを前提に、目立たない位置へ置かれた文字だった。 東都メディカルサポート。 東都商事の名を直接は使っていない。けれど、港町の倉庫で見た帳簿には、その名前が何度も出てきた。東都商事の関連会社。医療品配送を名目に、別のものも動かしていた会社。 相沢が資料を読み上げる。「当時、東都メディカルサポートは白鳥家の取引先ではありませんでした。しかし、東都商事の子会社として、有馬グループの一部物流も受託しています」 悠真の顔がかすかに動いた。 これまで彼は、後方の席で企業人らしい顔を保っていた。謝る場所を探しているようで、でも自分から前へ出るほどの覚悟はない。そういう顔だった。 今、その顔から、整えたものが少し落ちた。「有馬家は関係ありません」 反射みたいな声だった。 久我山が視線だけを向ける。「まだ確認の途中です。有馬氏、必要があれば後ほど発言を求めます」「……失礼しました」 悠真は座り直す。 その横で、莉々花が彼を見た。助けを求める目ではない。邪魔なものを見る目だった。 悠真がそれに気づいたのが、分かった。 気づかなくていいことに、ようやく気づいた顔をした。 真理は配送控えの写しを見つめている。「奥様は、その会社名を見て、受け取らないでと言われました。けれど薬包は、すでに白鳥邸の薬箱に入っていました」「誰が入れたのですか」 久我山の声が落ちる。 真理はすぐには答えない。 視線が瀬里奈へ行き、次に清隆へ行った。どちらか一人を指すには、恐怖が長すぎたのだと思った。「私は、入れるところは見ておりません。ただ、薬箱の鍵は、奥様と私と、白鳥家
真理はその笑顔を見ずに続ける。「処方された薬ではなく、運ばれてくる薬包を」 久我山がペンを持ち直した。「運ばれてくる、とは」「白鳥邸へ、外部の配送で届いていました。奥様の主治医から直接渡されたものではありません」 私の指が帳簿の角を押した。 母の病室。薬箱。乾いた紙の匂い。 記憶の奥で、あの白い薬包だけが妙に浮いた。 真理は一度、唇を噛んだ。「運ばれた薬包は、奥様のものではありません」 真理の声は細かった。けれど、指先は証言書の端を離さない。怖がっていても、今度は途中で飲み込まない人の手だった。 会議室の空調の音だけが耳につく。低くて、均一で、息を吸うタイミングまで測られているようだった。 久我山が先に沈黙を切った。「奥様のものではない、という根拠を説明してください」 真理は両手を膝の上で揃えた。「菜月奥様は、薬のことを必ず書き留める方でした。服用時間、色、匂い、包装紙の折り方まで。私が大げさだと申しましたら、奥様は笑っておられました」 そこで一度、声が止まる。 笑っていた母を思い出したのかもしれない。 私も、知らない母の笑い方を想像してしまった。すぐにみぞおちのあたりが痛くなる。「その薬包だけ、書き留められていた内容と違いました。折り目が右からではなく左からで、糊の幅も広かった。奥様は、こうおっしゃいました」 真理はハンカチを握った。「これは私の薬ではない、と」 清隆が椅子を引いた。「病人の思い込みだ。あの頃の菜月は、気が立っていた」「白鳥清隆氏」 久我山が名前だけで止める。 清隆は唇を引き結んだ。けれど視線は真理ではなく、テーブルの上の薬包記録に向いていた。 そこを見ている。 見ないようにしている人間は、だいたい見ている。 相沢が久我山に許可を取り、透明なファイルを一枚出した。「こちらは港町倉庫から見つかった菜月氏の保管資料の一部です。未開封の薬包外装と、配送控えの写しが含まれています」
もう聞いた。港町へ行く前から知っていた。指輪も外した。それでも、公の場で言葉になると、痛みの形が変わる。 征臣は、まだ私を見ない。「婚約関係は、本日以前に白紙へ戻しています」 征臣は一度だけ息を置いた。「申立書を止めたのは私です。本人へ確認しないまま保留にしました。彼女はそれを知って契約を白紙にし、自分で再提出しています」 最後まで、声の調子は変わらなかった。 清隆の顔が険しくなり、何か言いかけた口を閉じた。 征臣は視線を動かさなかった。 久我山がペンを置いた。「記録します」 征臣がようやくこちらを見た。目が合ったのはほんの短い間で、私は先に伏せた。 扉の近くで、真理がハンカチを握り直した。 刺繍の銀鈴が一度だけ表へ出て、また指の下へ隠れた。証言席へ向かうまで、彼女はその布を何度も折り直していた。 折り目だけが、少しずつ増えていった。 宮野真理は、証人席まで歩くのに時間がかかった。靴音は揃っていたが、ハンカチを握る指だけが白い。その数歩が、ひどく長く見えた。 銀鈴の刺繍が、布の皺に埋もれた。 久我山が声を落とす。「宮野真理さん。証言の前に確認します。あなたは白鳥菜月氏の秘書を務めていた方で間違いありませんか」「はい」 真理の声は細かった。「白鳥家を離れた時期は」「奥様が亡くなられた、翌月です」 清隆が小さく鼻を鳴らした。「家を出ていった人間の話を、今さら」「発言は求めていません」 久我山の一言で、清隆の口が閉じる。 私は膝の上で、母の帳簿の角に触れた。紙の端は、何度も開いたせいで少し柔らかくなっている。母が残したものに触れているはずなのに、今はそれが支えなのか、重しなのか分からなかった。 真理は私を見て、すぐに目を伏せた。「申し訳ございません、澪お嬢様」 その呼び方を聞いた瞬間、莉々花が唇を歪めた。「まだお嬢様って呼ぶんだ。もう白鳥家の人間かどうかも」「莉々花」 瀬里奈は柔らかく止
東都物産。東都商事の旧名。 港の倉庫の鍵についた古いタグと同じ文字。 私はファイルの中から、鍵の写真を出した。「この透かしと、同じものがあります」 瀬里奈の笑顔が止まった。「偶然でしょう」「封緘の赤も、東都商事の密約文書と同じ顔料です。こちらは相沢先生に鑑定依頼をお願いしています」 相沢が頷いた。「すでに予備鑑定の結果は出ています。少なくとも二十年前の紙ではありません」 莉々花の手が、テーブルの下で母親の袖を探した。 今度は瀬里奈の袖を掴んだ。 瀬里奈はその手を、見ないまま外した。 部屋の空気が、少し変わる。 久我山が速記担当へ目を向けた。「提出資料の真偽に疑義あり。入手経路について追加確認します」 瀬里奈の頬から、柔らかい色が引いた。 久我山は次に、証人席の札を見た。「鷹宮征臣さん。証人席へ」 征臣の靴音が、私の背後から近づいた。 征臣は、証人席に立っても姿勢を崩さなかった。 黒いスーツの肩線はまっすぐで、声も低い。いつもの鷹宮征臣だった。 けれど、私の席からは、彼の右手が袖口へ向かいかけ、途中で下りるのが見えた。 証言席のマイクが入る。事務局員が氏名と立場を確認し、回答はすべて調書に残ると告げた。 征臣は私を見ず、正面を向いたまま「承知しました」と答えた。その声に迷いはなかった。 久我山が書類を開く。「鷹宮氏。あなたが白鳥澪氏に接触した時期と目的について確認します」 部屋の端で、莉々花が顔を上げた。 瀬里奈も、清隆も、一瞬息を詰める。 ここで征臣が言いよどめば、白鳥家はそこにつけ込む。澪は鷹宮に利用されたのだと。鷹宮家の復讐に巻き込まれただけだと。 私も、それを知っている。 だから、膝の上の手が少し硬くなった。 征臣は私を見なかった。 見れば、私を使ってしまうと分かっているみたいに。「最初の目的は、白鳥家と東都商事の資金導線を確認することでした」 声が部
久我山が淡々と聞く。「署名と実印はご本人のものですか」 清隆の口が止まった。 瀬里奈がすぐに横から声を挟む。「当時は奥様がご病気で、混乱されていた時期ですから」「菜月様が亡くなられたのは、そのずっと後です」 相沢の声が入った。 瀬里奈の笑顔が、一瞬貼りつく。 莉々花が不安そうに袖を握った。誰の袖でもない。自分の袖だ。握る相手を間違えているように見えた。 久我山は契約書の写しへ視線を落とす。「この書類単体で親子関係を確定するものではありません。ただし、清隆氏が申立人を受益者として扱っていた証拠にはなります」 私は父の顔を見た。彼は契約書から目を上げなかった。 ファイルの角を親指で押さえる。 久我山がこちらを見た。「母の口座から、私の学費として毎年支出されています。承認欄は、父の秘書室です」 清隆の顔色が少し変わった。「家の経理が処理しただけだ」「白鳥家の経理ではありません。母個人の口座です」 声の端が、さっきより硬くなった。 声を上げそうになり、奥歯を噛んだ。 紙を一枚ずつ示す。 数字を読み上げる。 母が残した順番は崩さない。 瀬里奈がゆっくりとバッグを開けた。「でしたら、こちらもご確認ください」 出てきたのは、白い封筒だった。 封緘の赤が、どこかで見た色に似ていた。 瀬里奈は私を見ず、久我山へ微笑んだ。「澪さんの出生に関する、古い証明書です」 そのファイルの角に、東都商事の透かしが入っていた。 瀬里奈が差し出した証明書は、妙に白かった。 古い書類だと言うには、紙の繊維が均一すぎる。保存状態が良いというより、年を取っていない紙に見えた。 私は手を伸ばしかけて、止めた。 触らない方がいい。 そう思ったのは、恐怖ではなく、癖だった。紙の匂い、封緘の位置、折り目の浅さ。母の帳簿を読んできた手が、先に違和感を拾っていた。 久我山が手袋をつけた職員へ合図する







